第139章「裸の鋼」
廃墟の瓦礫の谷間。
崩れた高速道路の高架下、冷たい風が金属片を鳴らす中、二人の裸の女がにらみ合っていた。武器はない。だが、その視線の鋭さこそが戦場だった。
クラリッサ・アマリア・モラン――医師にして元兵士、ノーラ・ヘイスティンクスという“影”を背負った者。
カズミ・ヴィア――冷徹な観測者。かつて多くの者を救いながら、誰よりも多くを見捨てた記録管理者。
二人の視線が交差したとき、静寂が割れた。
「まずは、ネイト・カークランド“大佐”に対して……昇進、おめでとうございます!」
カズミが口角を上げて、まるで祝いの言葉のように嘲笑を吐いた。
「笑えるわよね。ノーラ・ヘイスティンクス――あの女は、自分の罪を全部、元旦那に押し付けて消えた。家族も記録も、そして“倫理”すらね。そんな女を大佐に憧れさせるなんて、彼も大したものよ。」
クラリッサは静かに目を閉じた。その表情には怒りも羞恥もなかった。ただ、深い哀しみと決意があった。
「……それでも、彼はノーラを“追う”ことで、自分の弱さに抗っていた。」
カズミは鼻で笑う。
「それって、“崇拝”じゃなくて、“逃避”って言うのよ。」
「違う。」
クラリッサの声は低く、しかし芯があった。
「ネイトは、“ノーラ・ヘイスティンクス”を殺す覚悟を持ってる。それが、“彼女の罪”を赦すことではないと知っているから。」
「へえ……」
カズミの瞳が鋭くなる。「じゃあ、あなたは何? “ノーラ”を演じてきたあんたは、その贋物で何を望むの?」
「私は、“ノーラ・ヘイスティンクス”という呪いを終わらせる。」
そのとき、クラリッサの体から微かに“鋼”の音が響いた。
肌の奥に埋め込まれた旧式の強化骨格。
骨の中で軋む、かつての“兵士”の名残。
――裸の鋼が、ここに立つ理由を告げていた。
次の瞬間、二人の間の距離が一気に縮まる。
だが、その瞬間――
「ストップ。」
遠く、影の中からネイト・カークランド大佐の声が響いた。
「ストップ。」
ネイトの声が響いたその刹那――
ゴゴゴ……ッ!
上空から瓦礫が崩れ落ちる。声に気づいたのは一瞬。だが遅かった。
「ネイトッ!!」
視界が砂埃と鉄骨の衝突音で遮られた。
ドガァン!
瓦礫がネイトの真上を直撃し、視界が完全に閉ざされた。クラリッサとカズミの姿も、瓦礫の雲の奥にかき消えた――。
ネイトは腕のジェットパックを作動させ、かろうじてその場から跳躍するも、着地に失敗して転倒。
「……ちっ、見失ったか。」
そしてその間に――戦いが始まっていた。
クラリッサ・アマリア・モラン。
かつてアラスカの戦場で生き延び、戦術格闘・医療暗殺の二重スキルを修めた影の兵士。
カズミ・ヴィア。
記録の番人であり、観測者の最高機密に触れ続けた"目"。その全身は軽やかな筋肉と神経強化で造られている。
両者の肉体は“武器”そのものだった。
カズミが微笑みながら、地を滑るように後退する。
その手は無防備に見えて、常にクラリッサの重心を見ていた。
「見せてみなさいよ、ノーラの影さん。どれだけ“本物”に近づいたのか。」
クラリッサは無言で腰の後ろからナイフを3本抜き、風のような一閃とともにカズミに向かって放った。
キィィィンッ!
ナイフは鋭く空を裂いたが――カズミは体操術でそれを滑るように回避。
側転から前宙へ、そして着地しながら嘲笑う。
「遅い。見えてる。」
次の瞬間、クラリッサの足が跳ねた。
空中に浮かぶように回転し、踵落としの体勢でカズミに迫る。
だがカズミもまた、動いていた。
その場で低くしゃがみ込み、地を蹴って斜め上へ跳躍、クラリッサの攻撃をギリギリで避ける。
「……お互い、体を武器にして生きてきた者同士ってわけね。」
クラリッサは息を整えず、即座に次の攻撃へ移る。
“ノーラ・ヘイスティンクス”の戦闘アルゴリズム――いや、それを超えた“母の爪”がここにあった。
そして、カズミ・ヴィアもまた、「観測者」以上の存在であることを証明しようとしていた。
カズミ・ヴィアの笑顔は、冷たく研がれた刃のようだった。
「さよなら、ニセ医者。」
その言葉とともに、カズミは左手の手首から飛び出したレーザーサイトをクラリッサの右目へと照射した。
一瞬にして視界が焼け、クラリッサの動きが止まる。
「くっ――!」
目が霞む。視野が斜めに歪む。
だが、カズミは止まらない。
そのまま両足を蹴り出し――連撃の膝蹴りが、クラリッサの腹部に炸裂した。
「ぐあっ……!」
ドン!
クラリッサの身体が弧を描いて吹き飛ぶ。地面に叩きつけられた。
その瞬間、カズミはとどめを刺すべく跳躍し――
――だが。
キィン!
異音。
白銀の光が走り、カズミの爪がはじかれる。
「誰……っ⁉」
カズミが目を見開いた先に立っていたのは――黒い和装に身を包み、全身に火傷のような古傷を持つ老人だった。
彼は無言で刃を構える。
その右手には、日本刀。
クラリッサを庇うように一歩前へ出る。
その声は、静かでありながら、鋼の芯が通っていた。
「……娘に、何をするつもりだ?」
「……誰?」
カズミが問う。
彼はゆっくりと名乗った。
「私は、リリスの父だ。クラリッサの……過去に遺した、償いの影。」
カズミは鼻で笑う。
「ほう? “父親ごっこ”のつもり? まさか、貴方まで“ノーラ”の残骸を守ると?」
老人は応じない。ただ、構えだけが答えだった。
その日本刀は、対人用ではなく――対兵器用の“対パワーアーマー刀”だった。
「面白い……なら、斬り合いましょうか、“お父様”。」
戦闘再開。
レーザーの光の交錯、刀と金属の火花。
クラリッサは地面に横たわりながら、目を開けた。
「……なぜ、あなたが……」
リリスの父――その正体は、今明かされようとしていた。