第136章「罪」
場所は、荒れ果てたマクレラン法律事務所の外。
崩れかけた看板には、かつてこの場所が権力と正義の象徴であったことを示す錆びついた“McClellan”の文字が浮かぶ。
そんな瓦礫の縁に腰を下ろし、観測者Y――ヤマケンは、ただ一点を見つめながら語り出した。
「……ネイト君。あんたさ、たまに面白いこと言い出すんだよね」
その口調はどこまでも静かで、感情の起伏すら感じさせなかった。
「“マクレラン法律事務所、地下4階にあるんだよ。ノーラ・ヘイスティンクスの“展示会””だって?」
ヤマケンは口角をゆっくり上げた。**薄笑い。**だがその奥には、澱のようなものが沈んでいた。
「“誰でも見れる。記録、映像、武器、戦歴、感情ログ、記憶断片……キャップすらいらない。
彼女の“生”の終末が、ガラス越しに並べられてる”――って?」
沈黙。重い空気が一拍。
そして、ヤマケンの顔が怒気をはらんだ歪みに変わった。
「――お前、馬鹿か?」
怒声でもない。だが、地面を割るような強烈な言葉が空気を裂いた。
「ノーラが笑いながら裸で走り回る映像? それが展示会?
そうやって“加工された最後の姿”を、見世物にしたのを“展示”って言ってんのか?」
彼はついに立ち上がった。拳をぎゅっと握る。
瓦礫が爆ぜるように、声が跳ね上がる。
「お前はあの女の何を見てきた!? 感情ログ? 戦歴? 断片!?
そんなもん“都合よく切り取られた死体”と同じだろうが!!」
地面を蹴るように前に出たヤマケンは、ネイトの目の前まで歩み寄る。
「……ノーラ・ヘイスティンクスが本当に何を考えて、何を背負って、
どう“終わった”のか――
それを“展示”なんて軽く言うなら、
お前に語る資格なんかねえんだよ。ネイト君。**」
彼の視線は、ネイトの心の奥に突き刺さるようだった。
「その“笑いながら裸で走り回る女”を、
“お前が愛したノーラ”と信じてるなら――
お前自身が、あの女の罪を見落としてんだ。」
その時、空から一枚の古びた写真がひらひらと落ちてきた。
そこには、スーツ姿のノーラ・ヘイスティンクス――否、クラリッサ・アマリア・モランが笑って立っていた。
だが、その背後には焦土となったパルス事件の現場があった。
マクレラン法律事務所 地下4階。
暗く、冷たいコンクリートの壁に囲まれたその空間は、
本来ならば法の記録と秩序の保管庫として存在していた。
だが今――それは、怒りと復讐の檻と化していた。
――ダダダダダダッッ!!!
ミニガンの回転音。
金属と弾丸が擦れ合い、コンクリートが裂ける。
映像装置が粉々に砕ける。
感情ログを収めたターミナルが焼け焦げる。
「ノーラ・ヘイスティンクス」の名前で展示されていた人工記憶のホログラムが霧散する。
「……これが、母を笑い者にする“展示会”か……」
巨大な赤いパワーアーマー。
その中心に立つのは――ジェリコン。
その顔は笑っていない。
怒りも通り越え、憎しみと絶望と、幼き祈りを纏っていた。
「俺は貴様らが許せない。
あの人を“英雄”として笑う者も、
“悪魔”として笑う者も、
“裸の女”として笑う者も……全部だ。**」
一歩ずつ。
破壊しながら進むジェリコンの足元に、粉々になったノーラの過去が転がる。
日記の断片、家族写真のレプリカ、戦場のフィルム――。
「お前らの誰も、母の苦悩を知らない。
この記録には“母の怒り”も“涙”もない。
都合のいい“記録”だけ切り抜いた嘘だ。」
彼は展示台の中央――
“ノーラの最期の記録”と書かれたメインディスプレイに手をかけた。
――ドォォォン!!!
赤く光るパワーフィストが画面を粉砕する。
同時に火花と爆発音が地下に響き渡り、
展示室全体が瓦解し始める。
一方その頃、地上ではネイトと観測者Yがまだ会話を続けていた。
だが、地下で起きていることに――誰一人、気付いていなかった。
“ああ、まただ。母さんのことになると、俺は抑えきれない……”
ジェリコンの独白は誰にも届かない。
だが、彼の破壊は止まらない。
焼け焦げた金属のにおい。
焦げ付いたデータチップの破片が足元に転がる。
マクレラン法律事務所 地下4階。
そこにはもう、ノーラ・ヘイスティンクスの記録は残っていなかった。
スクリーンは破壊され、記録映像は黒く焼かれ、展示パネルは爆破の衝撃で床に散らばっている。
「……なんだこれ」
ネイトは、瓦礫の山を前に立ち止まった。
だが、その表情に驚きも、怒りも、悲しみも浮かばない。
むしろ――空虚。
「どうせ、ろくなもんじゃなかったさ。
“あの人”が、他人に見せられるような人間だったか?」
そう呟くと、ネイトはそのまま背を向けて歩き出した。
焼け跡を踏みしめる音だけが、静かに残響する。
だが、彼の背を――見つめる視線があった。
クラリッサ・アマリア・モラン。
白いロングコートを羽織り、かつての“医師”の姿を装っていたが、
その目は、もはや仮面をつけてはいなかった。
「……何も感じないの?」
「あれが“ノーラ・ヘイスティンクス”の終焉だとしたら……
あなたはそれを、“無価値”だとでも言うの?」
ネイトは答えない。
足を止めることもなく、ただ、階段の闇へと消えていく。
クラリッサはその背中をじっと見つめた。
そして、小さく、確かに、呟いた。
「あなたは……あの人を“知ること”すら拒むのね……」
彼女の拳が、小さく震えていた。
それは怒りか、それとも――喪失か。
その瞬間――
展示室の片隅で、まだ焼け残った一片の記録チップが、
かすかな電力で青く光った。
(――ノーラ、ヘイスティンクス。記録ナンバー:EX-Ω-27。封印モード起動中……)
ノーラの部屋――その、かつての私室にリリスはいた。
小さな寝台に、身を横たえている。
ノーラ・ヘイスティンクスのベッド。
白く整えられたシーツは、今はリリスの体温で沈んでいた。
彼女は目を閉じていたが、頬には一筋の涙。
「……寝ていたいの、ここで……」
「お母様の匂いが、まだ……する気がするの……」
その声は細く、掠れていた。
だが、すでに意識は薄れている。
その腕に――
注射器の針が刺さっていた。
クラリッサ・アマリア・モラン。
白衣を脱ぎ捨て、かつてのノーラに似せた容姿で立つその女は、
リリスのボルトスーツ型ハイレグ長袖レオタードの袖口をまくりあげ、
静かに注射を終えた。
「……少しだけ、落ち着けるようになるはずよ」
抑制剤。
精神不安定と過呼吸の発作を抑えるもの。
だが、それだけではない。
クラリッサ自身の罪滅ぼしでもあった。
「ごめんね……あなたが“あの人”を愛してしまったことが、
こんなにも、重い罰になるなんて……」
リリスのまぶたが微かに動く。
目は閉じたままだが、もう一筋、新たな涙が静かに流れる。
「お母様……あたし……どうして……あなたじゃないの……?」
クラリッサは、手を引いた。
指先が、わずかに震えていた。
目を伏せ、かすかに自嘲気味に笑った。
「私は“ノーラ”にはなれない。
だけど、あなたの“母”にもなれない……」
部屋に沈黙が満ちた。
その時、窓の外を一つの影が通った。
それは、遠くから見ていた観測者Y――ヤマケン。
彼の目にも、クラリッサの行為は映っていた。
しかし、何も言わず、またしても――その場を去った。
静かな時が、寝室に流れていた。
やがて、リリスがまぶたをゆっくりと開けた。
世界がぼんやりと形を取り、現実の輪郭が戻ってくる。
瞳は濡れていたが、先ほどまでの怯えは、どこか遠くにあった。
「……クラリッサ……?」
そう呼ばれて、女は振り返る。
白い医療用コートを、静かに脱ぎ捨てた。
その下には、ボルトスーツ型ハイレグ長袖レオタード。
ノーラ・ヘイスティンクスがかつて纏った姿を模した、しかし今は彼女自身の、クラリッサ・アマリア・モランの姿。
裸足のまま近づいていく。
「……目が覚めたのね、リリス」
リリスは、ベッドの上で上体を起こした。
震える腕で、クラリッサに向かって手を伸ばす。
そして、ふたりは抱きしめあった。
かつての母娘のように。
あるいは、永遠に交差できなかった二人の魂が、
ようやく一つに溶け合うように。
そのまま、ゆっくりと歩く――
腕を組み、寄り添いながら、シャワールームへ。
シャワーの蒸気が、狭い空間に立ち込めていた。
水音が優しく響く中、ふたりは服を脱がないまま、その姿のままで抱き合っていた。
レオタード越しの体温。
濡れる生地と、熱い涙と、過去の痛みが重なり合う。
リリスは声を震わせながら、何度も何度もつぶやく。
「……お母様……お母様……お母様ぁ……!」
声にならない叫び。
嗚咽がシャワーの音に紛れ、クラリッサの胸に顔を埋めて泣き続ける。
クラリッサは目を閉じ、静かにそのすべてを受け止めた。
「もう……あなたを一人にはしない。
……たとえ“代わり”でも、偽物でも、私でよければ……」
この瞬間、
クラリッサ・アマリア・モランは“ノーラ”ではなかった。
けれど、
リリスにとっての“母”であった。
そして、
リリスはようやく、誰かに甘えることを許された少女になった。
リリスは震える手でクラリッサの背中にそっと触れた。クラリッサは目を閉じ、娘の温もりをゆっくりと受け止める。
「お母様……」
その一言に、堰を切ったように涙があふれた。リリスは嗚咽を漏らしながら、クラリッサの胸に顔を埋めた。母親の姿を模したその存在に、嘘ではない愛を感じていた。
「ごめんね……本当に、ごめんね……」
クラリッサは優しくリリスの髪を撫で、抱きしめた。声にならない思いが二人のあいだに流れ、過去と未来を包み込んだ。
AD2287年12月29日 ダイヤモンドシティ
冷たい風が市場を吹き抜ける。街の中心に、異様な存在感を放つ鋼鉄の塊が立っていた。
それはネイトだった。
黒に赤のラインが入った改造型T-65パワーアーマーが、通行人の目を引きながらも、誰も近づけないほどの重厚さを持っていた。目の奥に宿る光――それは機械のものではなく、失われた息子を探す父の、鋭い執念そのものだった。
「ショーン……どこだ……」
ヘルメット越しの声は誰にも聞こえない。
その横で、ジャケットの襟を立てながら歩くジュリエット・S・カークランドは、周囲の話し声にさりげなく耳を傾けていた。情報屋、よろず屋、スラムの子供――誰の口からも、ある特定の言葉が漏れていた。
「また……消えたってよ。あの古い地区で、家族ごと」
「最近じゃ、"白い人間"を見たって話も出てる。まるで幽霊だ」
「インスティテュートだよ。やっぱり、またやってるんだ」
ジュリエットは足を止め、ネイトに向き直る。
「ネイト。……インスティテュートの名がまた出てきてる。行方不明事件、前より増えてる。」
ネイトはゆっくりと彼女に顔を向けた。
「ショーンの件と……関係があるか?」
「十分あり得る。証拠はないけど……」
ジュリエットは目を細めた。「この街、また"見えない連中"に監視されてる気がする。」
「……なら、燃やしてでも、真実を掘り出す。」
パワーアーマーが軋む音を立てながら、ネイトの拳が硬く握られた。
空は灰色、雪混じりの雨がぱらつき始めていた。
その時、無線に微かな声が入る。
「……こちら、サウス・ボストン。人が……消えてる。記録にないゲートが……動いた……」
ネイトとジュリエットは目を合わせると、即座に動き出した。
インスティテュート――。
それは今も、地下深くで人の運命を、書き換えていた。