第140章「牙」
血のにおい。
焦げた空気の中で、銀色の刃と赤い視線が交差していた。
しかし――
「……引くわ。」
カズミ・ヴィアは唐突に、構えを解いた。
その赤い目は鋭く、怒りの残滓を映しながらも、冷笑を携えたまま背を向けた。
「“牙”を見せたか、名もなき剣士さん……でも、また会いましょう。次は“すべての者”の前で。」
疾風のように、彼女は消えた。
まるで“ゲート”そのものと一体化するかのように。
静寂が戻る。
クラリッサは地に伏したまま、かすかにうめいた。
老人はゆっくりと刀を鞘に納め、近づく。
「……無事で何よりだ、クラリッサ・アマリア・モラン。」
「あなた……まさか……」
「名乗る必要はない。」
男は、低いがどこか懐かしみを湛えた声で語る。
その声音は、どこか及川成幸のような柔らかく、しかし芯のある響きを帯びていた。
「私は“名前亡き者”。」
「……?」
「かつての名は捨てた。今はただ……“桜の旦那”と呼ばれている。」
クラリッサの目がかすかに見開かれた。
「“桜”……それは、あの――」
「そう。かつて戦場にあって、お前の母……“桜”と呼ばれた者の名を冠した者だ。」
「……まさか……お母様の……」
男はうなずき、微笑のようなものを浮かべた。
「お前は“桜の継承者”としてここにいる。自覚しているな?」
クラリッサは唇を噛む。
彼女は母“桜”から一切を継がなかったつもりだった。医術も、剣も、非情の哲学も――
だが、“名前亡き者”は静かに語る。
「その“レオタード”と“傷”、そして“選択”は、お前が継いだ証だ。」
「……私は……継ぎたくなかった……私は母を……」
言葉が詰まり、震える。
男は目を伏せるように、地を見た。
「ならばその想いもまた“牙”なのだろう。――だが、今ここで宣言しよう。」
「お前は“桜”だ。お前は、“名を持たぬ我”の、もう一人の娘だ。」
クラリッサの目から、一筋の涙が流れた。
名前亡き者は、再びその名の通り、音もなく霧のように姿を消した。
辺りを包んでいた緊張が、かすかに緩む。
そして――
「……お母様。」
静かな呼び声が、戦いの残滓を断ち切った。
木陰の奥、いつの間にか姿を見せた少女が一人。
その肌は夕日に透け、ボルトスーツ型のハイレグ長袖レオタードを纏いながらも、素足のまま地に立っていた。
リリス・モラン。
クラリッサが振り返る。驚きと安堵が交錯するその表情に、少女は迷いなく駆け寄った。
ぎゅ――っ。
リリスは母を強く、強く抱きしめた。
何も言葉はいらなかった。クラリッサは震える腕を彼女の背に回し、ただ静かにそのぬくもりを受け止めた。
「……こわかったの。お母様がもう……戻ってこないんじゃないかって……」
「……私は、絶対に離れない。……二度と。」
リリスは泣いていた。涙を流しながらも笑顔で。
クラリッサもまた、頬にひとすじの涙をこぼしながら、微笑んだ。
だが――その様子を、遠くの高台から見下ろす赤い目があった。
カズミ・ヴィア。
風に髪をなびかせながら、彼女は口元にふっと皮肉な笑みを浮かべる。
「まったく、茶番ね。」
その声は誰にも届かない。だが、侮蔑と冷笑が確かにそこにあった。
「医者だの母だの、愛だの再会だの……ふふ、甘いわ。それが一番人を殺す理由になるってこと、あんたたちはまだ知らないのね。」
風が吹く。
彼女の姿は、“ゲート”のような揺らぎの中へと溶けていった。
――次に姿を現す時、笑っていられる者は何人残るのか。
カズミの影が世界に、再び問いを投げかけていた。
夕暮れの廃墟。
鉄とコンクリートが風に軋む音が、遠くの瓦礫の隙間にこだましていた。
静かな静寂の中、クラリッサ・アマリア・モランは、リリスの肩をそっと抱きながら言葉を紡いだ。
「……リリス。よく聞いて。」
リリスは小さく頷いた。目にはまだ涙の痕が残っている。
クラリッサは空を見上げて、少し口元を歪めた。
「……あたしは、ノーラ・ヘイスティンクスじゃない。
似た服を着ていたし、似た記憶を持っていたかもしれない。
けどあたしは、“あの女”とは違う。……まったく別の存在だ。」
リリスは小さな声で尋ねる。
「……でも、私は……お母様って、思ってしまうの。いけないことなの?」
クラリッサは静かに首を振った。
「悪いことじゃない。……ただし、その想いを“誰に向けるか”を、間違えるな。
もし、ノーラ・ヘイスティンクス本人が生きていたとして――
お前が“あたしを母と呼ぶ”ことを、**あの女はどう思うと思う?」」
リリスは、口をつぐんだまま下を向いた。
クラリッサの声には怒りも悲しみもなかった。ただ、凍てついた覚悟だけがあった。
「お前の想いは、あたしが受け止める。
でも、それが誰かを傷つけることになるなら……
その覚悟だけは、持っていてくれ。リリス。」
リリスは強く目を閉じた。
やがて、また小さく、けれどしっかりと頷いた。
一方――
廃墟の反対側、T65改造型パワーアーマーのネイトが瓦礫の上に立っていた。
ジュリエット・カークランドは狙撃スコープを覗いている。
ディーコンは無言でタバコをもみ消していた。
「……ダメだ。熱源反応ゼロ。完全に見失った。」
ジュリエットの声に、ネイトは深く息を吐いた。
「まるで……“存在ごと”消えたみたいだな。」
ネイトの言葉に、ディーコンがぼそりと返す。
「消えるのが得意な奴が、今回はもう一人いる。あの女、クラリッサだ。」
ネイトは、ふと空を見上げた。沈む夕日が、再び始まる戦いの前の、静けさを照らしていた。
「戻るぞ。今は……嵐の前だ。」
3人は一時撤退を選び、夕暮れの都市に背を向けた。